「戻って来てよ、。シニアなんか辞めて、俺らともう一回野球しよう」

 俺は声も出なかった。目の前の千葉を呆然と眺めることしかできなくて、隣の元希のことなんてすっかり頭から抜け落ちていたから、思わず後ろに足を引いたときに、右腕をつかまれて心底驚いた。掴んだのは元希の左腕で、彼の顔を見やればぎらぎらと光る目がこっちを睨みつけていた。整った目鼻立ちの精一杯の有効活用だ、唇の間から低い声が発される。

「そうだ、。さっさと結論出しちまえ」
「……結論」
「言えよ、お前のその口で!」

 びり、っと、空気が痺れた。俺は情けなく目を見開いたままふらふらと視線を彷徨わせる。俺の、俺の結論、どこにあるんだろう。視線を千葉にやっても、元希にやっても、誰も俺の代わりに答えてくれない。いつも誰かに半分委ねて、それでいいよと自分の意見なんてなくて、文句なんてない、それが優等生のであって――それは、いつの間にかどこかに根付いた決まりごとだった。

「……俺、は」

 シニアに行ったとき、俺は正直に言うと、もう野球を辞めようと思っていたのだ。中途半端に疼いた腕を揺らしながら、俺はバットを折るつもりでいた。あいつらを捨てたのは俺自身の選択で、あの男を殴ったのも俺自身の、千葉にボールを投げていたこの手なのだ。その手で、人に、――暴力を振るった。暴力なんて最低だと、人としてしてはいけないことだと思っていた。そうしたら誰とも理解しあえないし傷つけあい、汚れた手じゃ誰とも触れ合えない。あの人たちみたいになりたくなかった。

、…!」

 千葉が叫んだ。俺の名前、は俺の名前だ。両親のつけた、唯一のもの。俺の両親は、ぼろぼろになりながら段々と枯れ落ちていった、からからの枯葉みたいな家庭だった。誰かが触ればすぐに崩れてしまって、もう何も残らない、そこに間違って残ってしまったのが俺だ。父は母や俺に暴力を振るい、母はそれをヒステリックに泣き喚き、怒鳴り散らし、俺は間に置かれた壁のようなものだった。父も母も好きだった。優しかった頃の父と母に戻ってほしくて必死にいい子を演じた。嫌いなものを食べた。何も言われずに勉強もした。掃除も洗濯も料理もした。笑顔を作った。殴られても文句は言わなかった。きっとあの頃のように、無邪気にいい子のような笑みを浮かべていれば二人とも笑ってくれると思っていた。だから笑ったしいい子を演じて、全てを言う通りにした。

「……選ぶ、選ぶよ、選ぶから」
「…
「選ぶから睨むな、…はは」

 だから笑うよ。きっとこの場がちょっとの笑顔でとけだして、少しでも居心地のいい場所に居たいから。もうあんなギスギスした空気なんて吸いたくないんだ、俺の好きな人たちには全員に笑っていてほしいんだ。

 なあ、なあ、ちゃんと笑えてる?






、俺は、お前に笑っていてほしいんだよ!」
「……は?」

 俺はいつの間にやら逃げていた視線を、千葉へと戻した。ひどく怠慢な動きだっただろうけれど、意外と短気な千葉なのに文句ひとつ言わずに全部を見ていてくれていた。目の前の千葉は、真面目な顔をしていた。しかし次の瞬間、砕けたような妙な顔をして、叫んだ。

「お前、うぜーんだよ!」
「…はあ!?」
「いっつも優等生で居て、ふらふらふらふらしやがって、いらつくったらねえよ!」
「千葉、てっめえ…!」
「だからさあ、俺はお前が大好きだ!!」

 息が詰まるかと思った。たぶん、千葉から吐き出されたものがものすごい勢いで俺の心臓を直撃したからなんだと思う。目の前の千葉は、ゆらゆらと滲んできた瞳でこっちを真正面から見ていて、零れそうなそれを隠そうともせずに俺に叫ぶ。

「お前が楽しけりゃいーんだよ、笑ってればいいんだよ、だから俺は」
「千葉」
「だから俺はお前の大好きな「選択肢」を提示してやってんのに」
「………

 元希が、掴んだままの左腕に力を込めた。
 その手から伝わる暖かさに、凍っていた呼吸器が溶け出して、ようやく呼吸ができるようになった気がした。


 心臓、肺に酸素が行き届いて、黒ずんで息を潜めていた背景に、千葉に、全てが一瞬で色づいた。


「なんだよお前、お前、もう居場所見つけてんじゃんかあ…」
「千葉、…千葉」
「俺の選択肢なんか、…いらなくなったんだな、………
「ありがとう」

 俺は元希の腕を振り払った。元希は俺の行動なんか全部わかってるんだっていう顔をして何も言わない。そして、俺は、千葉に思い切りよく抱きついた。

「ありがと、ありがとう、…ありが、とう、千葉」
「ばかやろう、ばかやろー! 俺の左隣は、ずっと、お前だと思ってたのにー!」
「ばか、やろう、お前…全校のセカンド敵に回してんぞ」

 すり寄せた頬は涙でぐちゃぐちゃで、いつの間にか俺にもそれが感染して、二人分の涙が海を作るかと思うくらい零れた。もう二人で野球することはないけれど、こうやって二人で泣きあうことはできる。そうしたらきっと二人で笑い合うことだってできる。野球だけが人間じゃないんだ。俺の塗りつぶされた視界を開いてくれたのは野球だけど、道を広げてくれたのも野球だけど、たぶん、今だけは、いいよな。

「ちくしょー、ちくしょー…っ!」
「残念だったな、千葉!」
「…、も、ももも元希さん!!?」

 ああ、ユニフォームと抱き合ったからか学ランが少し汚れた。きっとまたじいちゃんに怒られる。俺と抱き締めあったあとの千葉に、駆け寄ったのは元希だった。いつの間にやらほんの少しだけ追い越された身長で、元希はそれはもう満面の笑みを浮かべていた。後ろから飛んで来るのが隆也で、ああ、なんだこいつら、本当に、もう、俺は大好きなやつらが一緒にいる視界がどうしても幸せで口元が緩むのが止められなかった。

「学校でのは譲ってやるから野球でのは諦めろ!」
「ンだと!? お前、名前、名前は」
「榛名元希だ! んでこっちは阿部隆也」
「なんで俺まで!」
「榛名と阿部だな、っしゃ覚えた、学校でのはぜってー譲んねえから!」

 あほだろう。学校違うのに学校中の俺を取り合うのは無理だというのに気づいているんだろうか。それでも俺はその光景を眺めたまま、俺は肩を叩かれて振り返った。

「よう、
「…お前も居たのか」
「連れてきた保護者って言ってほしいね」
「…」
「ちゃんと選べて、まあるくおさまったじゃねえか」

 頭を撫でられて、俺はいつもなら文句をいう所を、ぐっと押さえてそいつを見る。その笑顔はものすごい柔らかいもので、そう、俺が求めているのはこの笑顔なのだと、また笑った。

「主将、号令よろしく」
「…言われなくても、時間無えよ」

 未だにぎゃあぎゃあと騒いでいる二人はきっと似ているんだろう、何となく楽しそうに口論している。それを間に入って止めようとしている隆也を見てから、俺は大きく息を吸う。そうだ、俺は、戸田北シニアの主将なんだから。

「戸田北ァ、集合!! 帰るぞ!!」
「……、…はいっ!」

 千葉も笑っていたから、俺も笑おう。駆けてくる元希と隆也と、とりあえず今は、居場所へ「帰ろう」。




主将は選択しました。