「………」

 俺は呆然と目の前の男を見た。いま、こいつは何て言った?

「戻って来てよ、
「…千葉」
「あれから一年経った、やっぱお前が居ないと駄目なんだ」

 それは、どういう意味だ? 俺は肩に掛けていたエナメルがずれて落ちたのも気にせず、必死に頭を回そうとしていた。戻って来い、って、千葉、お前。早く戻って来い思考、ほら、さっさと言ってやれ。俺は震える喉を抑えるように声を絞り出した。

「…俺は、シニアでキャプテンやってる。だから、もう」
「そんなの関係ない。俺は、もう一回お前と組みたいんだよ。…バッテリーとか、そういうんじゃないけど、だって、俺らずっと一緒だったじゃん」
「……」

 俺は落ち着かない視線を廊下に送った。誰かがこの空気を打開してくれるんじゃないかと期待していたが、生憎先ほどまでのやり取りで俺らの空気を読み取ったのか、俺らの周りには誰も居なかった。いつもは教室で喋っている女子だって場所を変えたらしい。ちくしょう、こんなときだけ一致団結しやがって、と奥歯を噛み締める。腹を決めて、俺はしっかりと千葉を見た。そいつはさっきからずっと俺を見据えていたらしく、何の迷いもない目で俺を見ていた。

「…」

 迷ってしまった。正直に言おう、俺はシニアか部活か、それを天秤にかけてみて、きっと一週間前まではシニアだったろう天秤が、中間まで浮き上がってきてしまっているのを感じていたのだ。
 あのまま、気まずいまま元希や隆也と別れる? いや、何も言う必要はなかっただろう? そうだ、キャプテンだってその元希にしてもらえばいいじゃないか、と頭の中で誰かが囁く。たぶん、悪い俺だとよく言われるやつだ。だってあいつらと顔をあわせるのも気まずくて、昨日や今日だってシニアに行きたくないと心のどこかで思っていただろう、と。

 違う、俺はちゃんと選択してシニアに居たんだ。


「………俺は、…」

 たぶん、聡い千葉のことだから俺のことなんてお見通しなんだろう。ずっとタッグを組んでいただけあって千葉の俺の扱いは上手いもので、選択するのが下手で優柔不断な俺を引っ張ってくれていた。ふう、と息を吐いて、千葉は俺の右腕を掴んだ。

「っ!」
「じゃあ、一日だけ。一日だけ部活に顔出してよ」

 ああ、本当にこいつは俺の扱いが上手い。









 そして俺は、昨日を部活に費やしてしまった。部活を捨ててシニアに逃げた俺を、温かく迎え入れてくれたやつらが優しすぎて、俺は思わず熱くなる目頭を隠すように俯いた。
 あのとき、監督を殴ったとき、俺は本当に頭が真っ白になっていた。今までの努力を全て土足で踏みにじられたような、そんな言い表せられない負の感情でどろどろしていた。生憎、一発殴っただけで監督は半分泣きそうで真っ赤な顔をして職員室まで走っていったから俺のどろどろは解消されないままだった。そのどろどろを受け止めてくれたのは、誰だったか、もう覚えていない。今回のようにロッカーだったかもしれないし、あるいはごみ箱だったかもしれないし、あるいは誰か、人間だったかもしれない。ただ俺が覚えているのは、退部届をキャプテンに渡して、それを千葉に見られて、千葉に泣きながら殴られたことだけだ。あれ以来、あいつの涙を俺は見てない。当たり前だ、避けてきたんだから。
 ごろりと、久々の充実した疲労感に包まれながら、俺はソファに身体を沈めた。そのまま寝てしまいそうになるが、夕飯もまだだし、明日の学校の準備もまだだ。でも動きたくなくて、俺はソファに横になったまま目を閉じていた。

「…
「…、あ、じいちゃん」
「何か、悩み事か?」

 歳にしては中々小奇麗なうちのじいちゃんは近所でも評判の掃除好きだ。家の前を掃いていることなんて日常茶飯事だし、俺の学ランに皺が寄っていたりするとそれと同じくらいの皺を眉間に寄せて、ぶつぶつ小言を言いながらアイロンを掛けてくれる。親に半分捨てられたような俺を育ててくれている、大事な大事な俺の自慢のじいちゃんだ。

「いや、別に」
「…そうやって抱え込むから、お友達とも喧嘩するんだぞ」
「!」

 俺は思わず目を見開いた。じいちゃんにシニアのことも中学のことも話した覚えは無い。何かを知っているような物言いに、俺は思わず口を開きかけるが、それはたぶん墓穴を掘るだろうと思い寸でのところで口を閉ざす。

「……別に」
「…まあいい。明日は部活に行くのか?」
「………」

 じいちゃんは、シニアも部活も変わらないと言ってシニアのことも部活という。まるで今日は"部活"に行っていないと言わんばかりの言い方に、俺は、本当にこの人はエスパーか何かじゃないんだろうかと疑う。もしかして目覚めたか、じいちゃん。

「……たぶん」

 それはどっちのことを示しているんだろうね、と、俺は自分に問うた。やっぱり返事は無い。




主将は選択を強いられる。