いたいのいたいのとんでいけ


 始末書を出せ、と言われて書面と向き合ってみるものの、集中できるはずもない。いつもの第一部隊隊長しか知らない人間が見たら仰天するような形相で、は飲んでいた缶を握りつぶした。そのまま歪な缶を流しに向かって放ると、思ったよりも騒々しい音がした。部屋が防音でよかった、と思う。

 しかし、防音であっても相手の耳がいいのでは意味がない。

 すぐ隣の部屋で明らかに苛立ったような音を立てられ、やつは一体どんな顔をしているのだろう、と思った。たぶん眉間の皺をいつも以上に深くして、壁越しにを刺殺できるほど鋭い睨みを利かせているに違いない。

 騒ぎを聞きつけたコウタがエントランスに駆け込んできたとき、既に両者が顔を腫らしていた。通りがかった新人たちがぎょっとして慌てて離れていく。

「何してんだよ、二人とも!」
「うるせえ、どいてろ」
「コウタ、うるさい」

 いつも辛辣なソーマのみならず、常に温和なの声色まで冷え切っていた。コウタが思わず顔を見ると、彼の表情は静かな怒りに煮えたぎっていた。滅多に穏やかさを失わないリーダーの見慣れない一面に声を失う。は左頬を赤く腫れあがらせ、それでもソーマを睨んで視線を外さない。珍しくフードが下ろされたソーマの口元に血がにじんでいる。

「放っとけるわけないだろ! つーか神機使い同士で殴り合うなよ、力のこと考えろって!」
「何言ってんの、神機使い同士だからいいんだろ。回復早いし死ぬわけでもなし」

 そりゃそうだけど、とコウタの声が気圧されたように掠れる。神機使いの身体能力はオラクル細胞によって強化されていて、の頬をここまで腫れあがらせたバスターブレード使いの拳はすさまじい重さだったに違いない。しかし、アラガミに抉られた傷がその戦闘中に塞がりはじめるゴッドイーターの治癒力があれば、この腫れも数日中には引くだろう。

「でも、だからって暴力はよくないよ、暴力は! 何があったんだよ」
「どうでもいいだろ」
「よくない!」
「コウタ、うるせえ」

 堂々巡りを始めた三人のやりとりは、結局ツバキの登場によって無理やり幕を下ろされた。何があった、の問いには二人そろって「忘れた」の一点張り。呆れ顔のツバキは整った唇を歪め、深々と溜息をついてから両者を部屋へと押し込んだ。

 それから遅々として完成しない始末書を机のはしへと追いやって、はぼんやりと宙を見ていた。音楽を流す気にもならない。冷えたジュースの缶で頬を冷やすのも飽きた。ミッションに出てアラガミにやつあたりでもしたい気分だったが、あいにく今日一日は自室謹慎を命じられたばかりだ。

 原因とか理由なんて、殴られたときに忘れた。とにかくしぬほど腹が立った。

 自分でも珍しいと思う。のイメージといえば飄々としていて温和で、争いごととは無縁そうなキャラクターだと自覚もある。多少わざとそうしている面があるとはいえ、そんな自分が、この拳をあの顔にぶつけた。褐色の肌がまるで紅潮したようにじわじわと色を変える光景を思い出しながら、は利き腕を見やる。殴りつけたときの痛みはもうない。

「落ち着け」

 そう呟いて、は見下ろした手をゆるく握った。もうすっかり神機を握り慣れた手だ。しかし数多の戦場を潜り抜けてきても、の人生経験はまだまだ浅い。生来の性格もあって、人と殴り合いの喧嘩なんてしたことがなかった。
 つまり、この喧嘩の終着点が見つからない。

「落ち着け、落ち着け」

 データベースに「喧嘩 終わらせ方」なんて検索をかけてみようか、なんて考えがよぎった。そうとう参っているらしい。ぐらぐらに煮えたぎっていた頭が冷えてきたら、今が取り返しのつかない状況に思えてきた。

 もし、あのモッズコートが振り返らなくなったら。

 脳内に駆け込んでくるいくつもの“もし”に、冷静さが蝕まれていく。いつものからっと穏やかなはどこにいったんだ、と耳の奥で誰かが笑った。

「ごめん」

 ぽろっとすべり落ちた言葉が、自分でもびっくりするくらいあんまりに弱弱しかったもので、慌てて口を押さえた。しかし、いったん口に出してしまえば戻るものでもないし、胸に落ち込んでいた重いものがちょっと軽くなった気もした。

「……この前のミッションで誤射してごめん、眠たそうなときに無理に話しかけてごめん、この前ソーマの飲み物に初恋ジュース混ぜてごめん、ええと、力いっぱい殴ってごめんなさい」

 挙げればいろいろ謝ることはありそうだ。これはもう一発くらい拳をお見舞いされるかもしれない。思いつく限りのごめんを羅列し、でも全部言うのもなあ、と主なものだけ頭に並べ、ゆっくりと立ち上がった。

 取り合ってくれるかは別として、行くなら今だ。部屋から出てこなければ、扉に向かって念仏でも唱えるように謝ってもいい。耳のいいソーマになら聞こえるかも。

「あ」

 そう思って扉を開いて、そこに思い浮かべていたままの顔があれば、誰だって思考が停止するだろう。が口を開いて呆然としていると、ソーマの深い瞳がゆらりと引き上げられ、を捉える。きっかり二秒間、お互いが沈黙を守った。

「ソーマ」
「もういい」

 やっとのことで絞り出した声は、短く制された。たった四文字、だがそれだけでにも察しがついた。もういい。何より欲しかった言葉だった。

 フードの下で、ソーマの腫れた口元がにやりと笑った。だから、も無理に口角を上げてみせる。無理すんな、と頬の腫れが叫んだ。

「あー、ミッション行きたいねえ。ハガンコンゴウあたりをこう、思いっきり」
「悪くねえ」
「二人で頼んだらいかせてもらえないかな」
「……さあな」

 でもまずは、頬を冷やすジュースでも買おう。顔を腫らした不格好な二人には、たぶんそれがお似合いだ。